日本刀と技術

刀を用いた技術というものは一日にして成るものではなく、鍛錬を長い目で見て積み重ねていくことで得られるものであり、簡単には手に入るものではない、ということをわかっておく必要があります。そういう意味で、まずは実際にあなた自身がお店に入って、感覚的に気に入った方を選ぶことはもはや必要最低限の条件であるとも言い切ってしまっても、いいかもしれません。一般的に、数万円から数十万円程度のものがいわゆるエントリーモデルとして売られていることも多いですが、魅力的なものが見つかった場合は、お金に糸目をつけずに買ってみるのもいいかもしれませんね。とにかく、刀との出会いは人との出会いと同じで、とにかく一生に一度きりということもよくありますから、買わずに後悔することがないようにしておくことが、良いのではないでしょうか?日本刀はレプリカ的に量産していくことが難しく、安い品でもイッテンモノである場合も多々あるわけですから、できるだけ多くの専門店に足を運んで、どの刀を選ぶべきかどうかを相談などしてみるのが得策だと言えそうです。今後、鍛錬をお続ける限り一生使うことになるかもしれないものですから、妥協せずに選べたらベストでしょう。近年、スポーツや政治などの、様々な場面で盛んにメディアが「侍」を例えるようになりました。もちろん、これは字義通りの、昔通りの意味ではなく、侍のスピリッツをくんでいるということですが、大きなスポーツの国際大会や、様々な国内大会で活躍した選手に対して、称賛の思いを込めて「サムライ」という風に表現することは相当多くなってきたという感があります。まさに日本らしい表現方法のひとつであるともいえるでしょうし、その点では伝統的であるともいえるでしょう。

 

殺陣の誕生

舞台や映画、テレビドラマなどの時代劇などで、俳優が行う模擬格闘や武器を用いての模擬戦闘は「殺陣」といい、「たて」と読むとされています。この「殺陣」の語源は、江戸時代の歌舞伎において、戦闘のスタイルを「たて」と呼んだところから来ているとされているそうです。このように歌舞伎が原点ということもあり、殺陣の歴史というものは、長く歌舞伎特有の「様式美」を重んじたスタイルが主流だったとされているようです。つまり、実際の戦闘とは違い、動きが舞いのようにみえたりと言うようにリアリティが欠けていたと言われているようです。

その後、これを大胆に変え、殺陣の一世風靡を巻き起こしたとされるのが、新国劇の創設者であったと言われています。この大改革以降、殺陣はスピードとキレを増し始め、よりリアリティのあるものへと変身を遂げたと言われています。模擬刀での斬り合いや、チャンバラの流行というのも、この殺陣の改変があったからと言え、多くの俳優が殺陣により人気を博して言ったとも言われているようです。現代で日本刀を見る機会と言えば、博物館や美術館ですが、テレビで見る時代劇での日本刀は、より生きたイメージとして記憶や印象に残り、殺陣による日本刀の姿というものは、現代に残る「武士の魂」を呼び覚ます唯一のものなのではないでしょうか。殺陣の道場などに赴いてみると、講師は武士のように礼儀や作法といったものから熱心に指導していることがわかるでしょう。昔も今も、生活の中からは消えてしまった日本刀というものが「日本人」の人格形成や生活様式の中にはまだまだ色濃く残っていることが感じられるのではないでしょうか。歴史の発見とともに、殺陣の目覚しい発展にも注目してみると面白いのではないでしょうか。

謎多き逆刃刀

とある少年漫画で一躍有名になった「逆刃刀」という日本刀があるのはご存知でしょうか。この少年漫画は、時代物であり、幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた人物が主人公であ理、実際の歴史人である大久保利通や山県有朋など明治の元勲や、新撰組三番隊組長であった斎藤一などの人物も物語に登場することから人気を博したものとされ、近年映画にもなったほどです。この主人公の愛刀が「逆刃刀」であり、通常の日本刀の刀身が逆となり、刃のある部分が峰、峰のある部分が刃となっているものを指しているようです。実はこの「逆刃刀」は、架空のものではなく、平成に千葉県から発見されたことから、現存していたことがわかったようです。発見された逆刃刀は、小型サイズであるものの、逆刃刀の特徴がはっきりと確認されており、しかし、全体の造りは雑とされ、強度も弱く、実用に耐えうる代物ではないとされているようです。しかし、刃と峰を逆にした刀の発見というのは他になく、大きな話題を呼んだようです。しかし、そうなると気になるのが、誰が何の為に作ったのかということであり、歴史的背景に関連した情報などは、まだ一切公開されていないようですが、手慰みにつくったのか、はたまたモデルがあって模倣したのか、かの漫画のように、時代を憂う刀匠が、自身の志を形にしたものであるのかと、興味や浪漫ははふくらむ一方であるのではないでしょうか。このもどきの逆刃刀は郷土資料館に所蔵されているようですが、このように、未だ謎多き日本刀の世界を、もっともっと知りたいと思わせられる事件であったことは間違いないのではないでしょうか。これからも「日本刀」から目を離せない出来事となったのではないでしょうか。

獅子王

獅子王が平家の出世頭であった頼政の手に渡ってからおよそ30年後、77歳にして頼政は平氏打倒の兵を挙げます。
平清盛との対立を深めていた後白河院の皇子・似仁王と組み、自慢の獅子王を振るい奮戦しますが、宇治の戦いで、敗れて自害することになります。
その後の獅子王は斎村正秀と徳川家康の手を経て、土岐勝頼に渡り土岐家相伝の家宝となりましたが、明治時代に東久世家を通して皇室に献上されました。

獅子王という号のいわれはわかっていませんが、古式の太刀であり、刀身は鏑幅が広く、腰反りです。
刃文は締まり、無銘ながら平安期の大和物の特 色が見られ、高い技術を持つ大和鍛冶の手による作と考えられています。
すべて黒漆塗となっていて、鞘には紺糸が施され、もともとは柄にも糸が巻かれていたと思われます。
黒漆太刀は平安時代以後に武家が常用していたもので、絵巻などにも数多く描かれているものです。

鬼切丸と菊御作

重文として有名なのが鬼切丸と菊御作です。

鬼切丸は、京都北野天満宮に伝わる数多の刀剣の中で、時期の最も遡る作例です。
また、重要な神宝として所蔵され、源氏はこの刀を宝刀として大切に奉ってきたといわれています。
その名の由来については諸説ありますが、清和源氏の三代目にあたる武将・源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が京都一条戻橋で鬼を切ったためという伝説が有名です。

もう一方の菊御作は、鎌倉時代に後鳥羽上皇によって作られた刀です。
23歳という若さで幼い親王に譲位し上皇として独裁的な院政を敷いた後鳥羽上皇は、刀剣に対する愛情は深く、諸国の万鍛冶を呼び寄せて好みの刀を打たせていました。
さらに所有する土地に鍛冶場を作り、藤次郎久国を師と仰いで、自らも刀を打つようになります。
その上皇が自ら作刀した作品が菊御作です。

日本刀をありのまま撮る

日本刀の鑑賞が普及していった要因の一つとして、写真の技術の発展は大きいと思います。その中でもカラー写真の威力はすばらしく、日本刀の美しさをより魅力的に伝えることができます。

一般的に日本刀の掲載されている本を見ると、表の全身や切っ先の部分、茎の三枚の写真によって説明されているものがほとんどだと思います。フォーマットを統一することによって、さまざまな日本刀を比較して見られるというメリットがあります。しかし、一般の人が見ると、同じような写真が続いてしまい、単調な本と思われてしまい、内容まで見ようとは思われないと感じます。日本刀によっては、刀身の中央部分にある華やかな刃文が特徴的で一番の見所なものもあります。ですが、フォーマットを統一するために、その特徴的な部分がカットされてしまい、その日本刀の魅力がまったく伝わらない場合もあるのです。そのように考えられ、日本刀によって、それぞれの特色の一番わかりやすい部分の写真を掲載している、ユニークな本もあります。

日本刀を印刷する上で画像を見て、なんて綺麗な日本刀と心を引き込まないと日本刀本来の魅力が伝わっておらず、画像にする意味はあまりないと思います。特に、マルテンサイトの結晶体である沸と匂は、写真では明瞭にとらえることが難しいと思います。そのため、ある本では、日本刀のもっとも注目するべき部分を二倍ほど大きさに拡大して撮ることによって、沸と匂、地肌の文様の美しさを伝えることができていると思います。

また、写真を本やパネルにする際に、印刷するまでにいくつかの工程を通らなければ行けないので、何十パーセントかは、本来の日本刀より鮮明さが落ちていると考えられます。そのため、次は印刷技術やコンピュータの発達を期待したいです。